日本で学んだこと③

みなさん、いつもありがとうございます。

日本に帰って来てから8年くらいでしょうか。

その間、たくさんのコーチの下で学ばせてもらいました。

帰って来た当初は、アメリカで勉強してきたことを大切にしたかったし、昨日のドリルの話じゃないのですが、一生懸命やってもなかなかうまくいかないこともありました。

あと、一番難しかったことの一つに「阿吽の呼吸」とかそういう部分がありました。

例えばアメリカの場合、仕事をする時には必ず「Job Description」というのがあって、役割分担や責任、その実行方法までが事細かに説明されます。自分の役割は何なのか、責任は何で、何をどうしたらどういう報酬があるのか、ペナルティがあるのか、またその役割を実行するために具体的に何をどのようにしたら良いか、などなどが明確に事前に説明されます。

バスケットボールのコーチングもある種似た部分があるけれど、しっかり「言葉」にして伝える、ということを重んじる国だし、そういう意味では本当にわかりやすい。

ボスが怒っていて、部下が何を怒られているかわからない、ということはあまり無い気がします。

ボスだろうと何だろうときちんと言葉で説明出来なければレスペクトされないし、「あの人今日機嫌悪いね。」となる。

むしろ部下から「大丈夫?何か悪いことあったのかも知れないけど、前向きに頑張ろうよ!何か相談に乗れたら乗るよ!」みたいな声がかけられるような国です。

でも、日本でそんな指示やらを待っていたら、いつまで経っても成長出来ないとある時気づきました。

指示を出来ない上司が悪い、と考えるアメリカに対して、日本は根本的に考え方が違う、と。

契約社会のアメリカではそれこそ、事前にしっかり役割を決めて、説明して、言い方が悪いけど、金太郎飴みたいに、そのスキルや資格を持っている人を呼んできて仕事をしてもらう。入れ替えも激しいし、そうして「パーツ」として即戦力として機能してもらわなければ組織が停滞してしまう。

日本って、今はだいぶ変わって来ましたが「生涯雇用」の感覚が未だに根強く残っているし、そう考えると、アメリカのように大量生産して、即戦力、みたいな「パーツ」という訳ではない気がするんですね。みんな資格を統一して、マニュアルを作って、どの歯車が入って来ても、回るようにしよう、みたいな感じではない。(工場のラインとかはそうかも知れませんが、それでも管理職とかになると、全然違う職場に行くケースも珍しくないですよね?)

だからSpecialistを量産して、どんどん「パーツ」としてうまく使うアメリカに対して、日本はSpecialistではなく、いろいろな経験を積ませて、たくさんのことを考えられるような、Generalistの育成を目指してきたと思うんです。

もちろん会社とバスケットボールのチームとは違うのでしょうが、日本のバスケットボールのチームだったり、小さい単位のグループだし、単位が小さいのでどちらかというと職人気質の人が多い気がします。だから機械的に、「あれとこれをこの手順でこうやれ」というよりは、「お前がまず何が出来るか見極めよう」みたいな部分があるのかな、と。例えばバスケットボールチーム一つとっても、アメリカよりも日本の方がマンパワーも絶対に少ない訳ですし。。。だから、「パーツ」にするっていうよりは、「その人にやってもらえることは全てやってもらう」というか、Generalist的な部分もあるし、コーチとアシスタントコーチの関係でいうと、「一子相伝」みたいな部分がある気がするんです。

何が言いたいのかというと、日本では「沈黙は金、雄弁は銀」という言葉だったり、「背中を観て学ぶ」という言葉のように、なんだろう、基本的に一から百まで言わない部分ありますよね。

質問して、「うん」と言われても、その「うん」には何十通りの解釈があり得るし、そういうわびさび、というか、そういうことを理解しよう、わかろうとして、見えてくる世界がある、というか。。。

ある意味、一から百まで定義して万人に対してわかりやすい説明よりも、こうして「うん」の一言だけでわかりあえる関係を例え時間がかかっても築けた方が、より深い、また高い次元でのコミュニケーションが出来る。。。効率的ではないかも知れないけれど、「心」とか、重要な部分が通い合える、みたいな。。。

そういった日本の価値観が逆にアメリカで見直されていて、日本文化に魅了された人が本とかで紹介しているケースってアメリカにいた時に、意外に結構ありました。

自分としては「どっちが良い」ではなくて、ケースバイケースでその時、その選手やグループにあった最善の方法を巧みに使い分けることが出来るようになるのが理想なのかな、と思っています。

説明は共通理解を築くためには絶対に必要。だから、わかりやすく、自分の伝えたいことを言葉にすることは出来るようにならなければならない。でも一方で、そういう「阿吽の呼吸」的な部分もやはり築く努力って必要だと思うんですね。

すごく難しいことだけれど。。。

でも、そういうこと、考えたり、気づかされたりして、見えて来たことってある気がします。。。

自分は良く言うと環境に適応するタイプだから、アメリカから帰ってきて時間が経った今はどちらかというと、「多くは語らず気づけ」ってタイプな気がしますが、やっぱりそれだけではうまく行かないんですよね。。。

でも、そういう部分、大切にしたいし、自分も気づいたり、人の微妙な変化にもっともっと気づける人間になりたいなあ、と。と同時に、しっかりと共通理解を築けるよう、言葉に出来るリーダーになりたい。そして、どのタイプの人がどのタイミングでどちらのコミュニケーションを学ぶことが必要なのか、見極められるようなリーダーになりたいな、と。

最近はそんなこと考えています。